春の空気がまだ冷たく、ランドセルを背負った子どもたちが、校庭を駆け回っていた。葵 真人は、その中にいた。 華奢な体に、少し大きめの制服。 可愛い顔立ちのせいか、初対面の教師にすら「女の子かな?」と間違えられたこともあった。 真人は、走るのが苦手だった。 力も、あまり強くなかった。 体育の時間。 ドッジボールでも、鬼ごっこでも、 彼はいつも追いかけられる側だった。 ある日、クラスで「腕相撲大会」が開かれた。 「男子の部」「女子の部」と分かれていたけれど、 人数合わせで、真人は女子の組に入れられた。 最初の相手は、同じクラスの朝倉 彩音(あさくら あやね)。 活発で、笑顔が眩しい女の子だった。 机に肘をつき、手を組み、合図を待つ。 真人の手は、細く、温かった。 対する彩音の手は、思ったよりもしっかりとした感触だった。 「はじめ!」 先生の声が響いた瞬間、 真人の手は、あっという間に押し倒された。 あまりにも簡単に。 「えっ、うそ……」 真人は、目を丸くした。 周囲から笑い声が上がる。 「真人くん、よわーい!」 「彩音ちゃんのほうが強いー!」 真人は、顔を赤くして俯いた。 悔しかった。 恥ずかしかった。 けれど―― その胸の奥に、ほんの少しだけ、 奇妙な高鳴りがあった。 負けた瞬間、彩音の笑顔が、 まるで太陽みたいにまぶしく見えたのだ。 それからというもの、真人は、自分でも気づかないうちに、 運動のできる女の子たちに目が向くようになった。 バスケットボールで素早く動き回る子。 リレーで男の子を追い抜く子。 彼女たちの姿に、目を奪われるたび、 真人の中で、何かが育っていった。 それは、ただの恋でもなく。 ただの劣等感でもない。 強く、美しいものへの憧れと、 それに負けたいという甘美な感情。 真人自身も、その感情に名前をつけることができなかった。 ただ、胸が苦しくなるのを、そっと隠すことしかできなかった。 まだ、小学二年生の春だった。 けれど、葵 真人という少年は、 すでに、自分だけの秘密を、心に抱え始めていたのだった。
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